乳科学 マルド博士のミルク語り

秦野と蘇

2023年8月20日掲載

新宿から小田急の快速急行に1時間ちょい乗ると「秦野」(ハダノと読みます)に着きます。降りて北口に出ると、「水無川」があり、「まほろば橋」を渡り左に進みます。右手に創立150周年を迎えた「本町小学校」を見ながら10分弱歩き市役所まで進みます。市役所と駐車場の間に右に入る小道があります。この小道は「醍醐みち」です(ダイゴと振り仮名がついていますが、地元の方はデーゴと呼びます)(写真1)。右折し、ゆるやかに登っていくと「乳牛通り」(チウシ)(写真2)に出ます。左折し、しばらく上ると「曾屋神社」に出ます(写真3)
この神社は天長年間の設立で、明治6年に近隣の神社6社を合祀し「曾屋神社」と改称されました。社内には「井之明神水」(イノミョウジンスイ)と呼ばれる湧水があり、曾屋村一帯に用水路がありました。このため、「乳牛通り」周辺ではウシが飼育され、「醍醐みち」と交わる辺りには乳製品を造る工房があったと言われています。
曾屋とは蘇を作っていた所だとの説があります。では、誰が蘇の作り方を伝えたのでしょうか?実は根拠となる史料がなく、地元で伝承されている話だけです。それによれば、”唐子(カラコ)さんが海から大磯の海岸に上陸した”、とか”富士山の噴火に伴い下りてきた”との伝承があります。この唐子とは渡来人である秦一族のことで、様々な技術を身につけていたと考えられています。搾乳技術と蘇の作り方も知っていた可能性があります。朝廷から貢蘇の指令が出ると、5年もかからずに搾乳技術と蘇の作り方が全国に伝わったのですが、驚くべき伝播速度です。秦一族が全国に飛び技術指導したと仮定すれば然もありなむと考えられます。
秦一族は謎多き人々で政治経済の表舞台に登場することは少ないのですが、当時の朝廷を陰で支え多大な貢献をしたと伝えられています。神武天皇の平城京から長岡京への遷都を全面的に支援したり、広隆寺を建立したり、聖徳太子を陰で支えたりしています。また、秦一族はユダヤの血を引いているとの説もあり、西アジアで始まった乳利用技術に長けていたとしても不思議ではありません。もしかすると、孝徳天皇に牛乳を献上した善那は秦一族と何らかの関連があったのかもしれません。

以上は推測を含めた秦野と蘇の関係ですが、以下は意外に知られていない秦野の歴史です。曾屋神社には上記したとおり「井之明神水」(イノミョウジンスイ)を水源とする水道がありました。横浜、函館に次ぐ日本で3番目の水道で、その痕跡をみることができます。また、秦野は落花生の産地で、千葉よりも先に落花生栽培に取り組んでいます。曾屋神社近くの落花生屋さんで販売されている落花生は美味で、落花生を粉砕したものをまぶしたソフトクリームも絶品です。一休みするには絶好の位置です。
 

 


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