カードナイフという道具について
ここ30年来、筆者はヨーロッパ各国を回り、チーズの写真を撮り続けてきましたが、行くたびに見た事もないチーズに出会い、いつも人間の想像力や技術の多様さに感じ入ってしまうのです。長い年月を経て、それぞれの風土に適応しながら人の知恵によって作り上げられたチーズは一つとして同じものはないのです。
そんなチーズを作る道具にも個性があってそれだけ見ても面白いのですが、今回はそんな中でチーズ作りの初期に使われるカードナイフといわれる道具を取り上げてみましょう。
「カードナイフ」。一般の人は見た事も聞いたこともないでしょうが、チーズ作りの最初に使われる重要な道具なのです。少し専門的な話になりますが、ミルクに酵素などを加えて凝固させたものを、チーズ作りの現場では一般的にカードと呼んでいます。皆さんが毎日食べているヨーグルト、あの固まった状態がカードで、それを壊すと薄黄色の水分が出てきますね。それをホエイと呼んでいます。チーズ作りの初めはこの状態に似ています。
ミルクを専用のバットなど(銅鍋やケトルなど様々)に入れて温め、そこにレンネットと呼ぶミルクを凝固させる酵素を加えます。するとミルクは絹ごし豆腐より柔らかい個体(カード)になっていきます。このカードを所定の大きさにカットする作業に使われるのがカードナイフです。カードはカットされるとすぐにホエイがどんどん染み出して来ます。
カッティングに使われる道具には、国や地方により様々な形がありますが、よく使われるピアノ線を張った古典的なカードナイフはハープとも呼ばれ、手作り工房などでは今も使われています。近代設備の工場では写真のようにピアノ線をそれぞれ縦と横に張ったものをモーターで回転させながら、自動的にカードを立方体にカットする方法がとられています。カードは細かくなるほど水分は出やすくなるので、チーズの種類によって現場の技術者は様子を見ながらこの作業を行い、目的の硬さのチーズに仕上げていくのです。ただ、カマンベールのように柔らかいチーズの場合は、お玉(ルーシュ)を使いカードを所定の大きさに掬いとり小さな穴のあいたモールドに入れ、自重でホエイを排出させます。
このようにして、それぞれ理想的な水分を含んだグリーン・チーズ(でき立ての白いチーズ)を作りあげ、これを発酵熟成させて目的の個性を備えたチーズにしていくのです。
ヨーロッパのチーズ作りの現場を回ってみると、このカッティングが、面白い形の道具や変わった方法で行われているのに出会うのです。例えば、イタリアでのパルミジャーノの場合はスピノと呼ぶ鳥籠状のカードナイフを使い、温度を上げながら米粒ほどの大きさの絞まったカードにしていきます。
ピレネー山中で一日に4個のP.D.O.チーズを作る山小屋では手作りのカードナイフを使っていました。またカナリア諸島で見たのは写真のように腕を使ってカッティングするのに出会いましたが、19世紀にイギリスで書かれた「テス」という小説に、美女が両手の袖を肩までまくり上げカードを砕くシーンが描かれているので、この方法は知っていましたが、あれからおよそ150年、まだこんな方法が残っている事に驚いたのでした。いかがでしょう。チーズってほんとうに面白いですね。