世界のチーズぶらり旅

スイスで最古といわれるチーズを訪ねて

2015年7月1日掲載

初めてスイスで出会ったスプリンツ

ヨーロッパで最古のチーズといえばこの人の名が必ず出てくる。ローマ時代の文人であり、軍人であり政治家でもあったプリニウスである。彼は31巻のローマ史の他に、37巻に及ぶ「博物誌」という百科事典のようなものを書いた。そこには地理学、天文学、動、植物学、美術などの他に、怪獣や狼人間など奇妙なものまで出現する。その大半は他の本からの引用や、聞きかじり、噂話などを網羅したまことにおおらかな本らしい。その中にはいくつかのチーズも出てくる。ロックフォールとかカンタルなどはガリア(フランス)の山中からローマに送られたと、プリニュスが博物誌で言及しているので、これ等はフランス最古のチーズであると、チーズ辞典などに引用されている。そういう訳で内容の真偽はともかく、この「博物誌」はローマ時代の貴重な資料として現代では各方面で重宝されているのである。余談だがこのプリニウス氏は西暦79年の夏ナポリ湾の軍港に司令官として滞在していた時、対岸のヴェスヴィオ山が大噴火を起こす。好奇心の強い彼は船を仕立て、救援もかねて火山灰が降る中を対岸に渡るが、翌日火山ガスにまかれて死んでしまう。このいきさつは、後に少プリニウスといわれる彼の甥が克明にレポートしている。

高原のチーズ工房

というわけで、今回紹介するスイスの超硬質チーズ、スプリンツは「ラルース・チーズ辞典」(三洋出版貿易刊)によれば、スイスで最古のチーズで、プリニウスが、カゼウス・ヘルヴェティクス(スイスのチーズの意)と記したのがこのチーズであろうとしている。

筆者が最初にこのチーズに出会ったのは、1990年代の前半にラクレットの取材でスイスへ行ったときである。山小屋のレストランで出されたのが上の写真である。専用のカンナで削って木のボードにのせパンを添えただけの何とも素朴な姿で現れたのである。日本では今もこのチーズを知る人は少ないが、昔からイタリアはこのチーズの上得意先で、かつてはロバの背にのせられ魔の峠サン・ゴダールを越えてミラノに運ばれたという。

縦置きで熟成中のスブリンツ

最初にこのチーズと出会ってから20数年、スプリンツの郷へ旅することがかなったのは昨年の6月だった。湖畔の美しい町ルッツェルンの郊外から山道に取り付き、大パノラマに目を奪われながら、七曲りの道を登っていくと間もなくゆるやかな高原に出る。斜面は一面牧草の緑に覆われ、所々に牛舎やチーズ工房らしきものが点在している。間もなくアポを取っておいた工房についたが、昼近くの到着では製造は見られない。しかし、スイスチーズの作り方はさほど違いはない。これまで見てきたエティヴァもグリュイエールも写真にすれば同じというわけで、さして落胆もせず、とりあえず熟成庫を見せてもらう。

キャプション

熟成庫には数種類のチーズが棚板の上で眠っている。どこのチーズ工房でも普通は数種類のチーズを作る。特にスプリンツのように超硬質の大型チーズは熟成期間も1年以上と長い上に、必要な原料乳の量は半端ではないから、毎日製造というわけにはいかない。その合間に別のチーズを作るのである。それはともかくとして、初めて見る熟成中のスプリンツ。その美しさは感動ものであった。表皮はつややかで、白木でできた工芸品のように端正で、どっしりと鎮座している姿には威厳さえ漂っていた。

切りたてのチーズでおもてなし

見学後のお楽しみ、試食タイムは工房のオーナー夫妻の素朴ながら心のこもったおもてなしである。エピセアの一枚板のボードに、スプリンツを筆頭に自作のチーズが所せましと並んでいる。数千年の歴史を持つ古典中の古典のチーズを、現代の作り手の工房で味わえるなんて、チーズ好きにとっては、様々な思いが胸にせまる価値あるひと時であった。