日本でもかなり知られているテト・ド・モワンヌというスイスのチーズは、それ自体は何の変哲もない円筒形の小型のチーズだ。ジュラ山脈の東側のフランス語圏で作られるこのチーズの名前の意味は「修道士の頭=Tête de moine」。ラベルにも頭の頂点を剃った僧侶の絵がある。筆者にはこの可愛らしいチーズがどうしても修道士の頭には見えない。今から5百年ほど前にスイスのジュラ山麓のベルレイ(Bellelay)の修道院でこのチーズは誕生したという。従ってチーズの名もフロマージュ・ド・ベルレイだったが、修道士の頭と呼ばれるようになったいきさつはいくつかある。複数の資料に出ているのは、かつて修道院が、傘下の農民から年貢として僧侶の人数分、つまり「頭数」だけのチーズを受け取ったことに由来するというが、この話ではイメージが湧きにくい。別の資料では、昔はこのチーズの上部の皮をナイフでこそげ取ってから食べた。それが修道士の剃髪、つまり頭を剃る行為に似ているからという。この話ならば納得。情景が目に浮かぶ。
さて、くだんの修道院は現在も山の中の小さな村に建っていて、近くにはこのチーズの博物館まである。ヨーロッパのどこにでもある様なこの修道院がこれほど有名になったのは、やはりこのチーズのおかげではないだろうか。失礼を承知で言えばテト・ド・モワンヌの味わいに際立った個性があるわけではない。この種の非加熱圧搾タイプのチーズは無数に存在するが、このチーズを世界に売り出すことに成功したのは、あのジロールというチーズ削り器の開発によるものと私は見ている。このチーズはかつて、ナイフで上部の皮を取った後、中身を薄くそぎ取って食べていたという。それが、チーズをカーネーションの花の形にそぎ取るジロールの開発によって一躍パーティーの、文字通り花形になったのである。が、ジロールとは花ではなくジロールという茸の事だそうだが、あの形は山国の人にとっては茸を連想させるのだろう。ともあれこの道具とチーズさえあればチーズの盛り合わせに花を添えることができる。テト・ド・モワンヌはこれ以外の食べ方はないという珍しいチーズだ。従って宣伝はいつもチーズとジロールはセットで登場する。
去年の夏に、テト・ド・モワンヌの生産現場とゆかりの修道院を訪ねた。スイスの西部ヌーシャテル湖の北にある時計の町ショー・ド・フォンから東に延びる田舎道を20kmほど走ると、Courtelaryという、道路に沿って家が立ち並ぶ小さな村があった。その村の中頃に、小さなフロマジェリィーがあり、その裏手にこれまた小さな工房と熟成庫がある。見学者が10人も入るともう一杯。見学にもさほど時間はかからない。草地が豊富なこの地方にはこのような小さな工房が点在しているらしい。見学が終わればお待ちかねの試食である。エピセアのチーズボードに数種類のチーズが載せられ、そのわきにはテト・ド・モワンヌがブーケの様に添えられていた。
ここまで来たら、このチーズ発祥の修道院を見なくてはもったいない。更に北東に 20㌔足らずの山中にベルレイ修道院はあるはずだ。このあたりの山道は我々が心に描くスイスの風景ではない。エピセアの森とそこを切り開いて作られた草地と畑が交互に現れる。そんなのどかな風景の中を小一時間ほど走ったある村のはずれに目的の修道院があり、その近くに立派な博物館が建っていた。人気の少ないこの博物館の入り口にはテト・ド・モワヌの拡大されたラベルが掲げられている。これを仰ぎ見て初めて、ラベルの下の方にFromage de Bellelyという、このチーズの古い名前が併記されている事に気付がついたのであった。