まだ初夏のスイスの山中の村レティヴァにいる。朝早くに目が覚めたのでホテルの窓を開いてみると、谷にはまだ淡いブルーの夜の名残が漂っている。西の高峰の頂きあたりはほのかに朝日の気配が見える。板張りの廊下を足音を忍ばせ、ひと気のないダイニングルームに降りてみると、窓いっぱいに牧草地が広がりその中にスイス特有の美しい木造の家が静かにたたずんでいる。西側の峰に朝日が差す頃、外に出てみると空気はひんやりとしている。この谷はおそらく標高1000mは超えているのだろう。さほど広くない集落を散策していると、とある家の軒先にエーデルワイスが咲いていた。陽が当たり出した斜面の上の方からカウベルの音がこだまのように響いてくる。
スイスは世界に名だたる観光地でどこへ行っても風景は美しい。この美しさはどこから来るのか。例えばこの小さな村レティヴァである。谷の両岸はかなり上の方まで放牧地になっていて、見上げる草地は遠くから見れば芝生の様に美しく、急な斜面の草地には水平に細かい筋のようなものが入っている。これは牛達が斜面を横に移動しながら草を食べた痕跡である。そして草原の中にクリスマスツリーにもなるエピセア(唐檜)の林が点在する。これらの風景は決して自然のままの風景ではない。人と家畜の営みがつくりだしたスイス版の「里山」なのである。国土が狭く山ばかりの厳しい自然の中にあるこの国では、太陽のエネルギーが詰まった貴重な緑を白い乳に変えて数千年生きてきたのである。夏になれば2000m近い山地に牛を追い上げて高山の草を食べさせ、昔ながらの効率の悪い手法で付加価値の高いチーズを作る。
日本でも牛の山地放牧が増えている。牛を放った山林は野草が徒長せず小さな雑木も淘汰され美しい里山になるという。全土が緑に覆われているという稀有の国日本。耕作放棄地や荒れた山林が増える一方だ。日本では放っておけば野草は人の背丈を超えるが、スイスではせいぜい腰のあたりか。この恵まれた緑の資源の何分の一かでも白い乳や赤い肉に変えることができれば何かが変わるかも知れない、とスイスの谷の朝もやの中で考えた。
さてこの小さな集落に2泊したのは、スイスの希少にして貴重な山のチーズ、レティヴァを見るためである。このチーズに詳しい本間るみ子氏によれば今から30年前まではレティヴァは、グリュイエールと同系統のチーズとみなされ、固有の名前もなく地元以外ではほとんど知られていなかったという。そこで1984年にこのチーズにレティヴァの名を与えると同時に、明確な差別化を図るために製法や熟成方法など細かい規定を作った。そして2000年にスイスのAOP(原産地名称保護)の認定を獲得し、一躍スイスチーズの代表の仲間入りをする。とはいえその生産量はグリュイエールの28,000トンに対しわずか380トン(CPA教本)というから希少なチーズであることには変わりない。それは7月にもこの欄でレティヴァの製造現場を紹介した通り、5月から10月までの間に1000m以上の高山に牛を追い上げ一緒に暮らしながらチーズを作るアルパージュと呼ぶ製法にこだわっているからだ。しかし短期間に高山で作られるチーズは製造現場で熟成することはできない。そこで生産組合は谷間にレティヴァ専門のカーヴ(熟成庫)を作った。いまホテルの部屋の窓から見えるレティヴァのカーヴは最近改装し拡張されたものだそうで、エピセアの木材を使った端正で近代的な建物だ。北側の壁には広い窓がありそこからは、たてに並べて熟成中のチーズが道路からも見えるようになっている。これも知名度の低いレティヴァの宣伝戦略であろうか。このカーヴには近隣の70ヵ所のシャレーで作られたチーズ集められ、審査に合格したチーズだけを専門の熟成士によって三つのタイプに育てられる。5ヵ月熟成させ上質とみなされたチーズは、皮を削り取り食物油を塗って更に30ヵ月以上、たて置きで熟成させる。これがルビーブ(Rebibes)呼ばれる最高級品だ。
こうした努力によって地元消費の無名だったチーズはレティヴァの名で世界に輸出されるまでになるのである。この小さな村の大きなチーズの揺りかごには山岳民族の不屈の情熱によって育まれた貴重なチーズが静かに眠っているのである。