ヨーロッパの事を書くとき、何げなく町とか村などと書いてしまうが、ヨーロッパの大方の国は日本のように住民数によって自治体のランク付けはしない。コミューン(仏)、コムーネ(伊)などと呼ばれる基礎自治体がもとになっていて、100人に満たない自治体だって存在する。しかしイメージを伝わりやすくするために集落の規模が小さい所は村、多ければ町などと書いてしまうことになる。というわけで今回はレティヴァ(L’Etivaz)というチーズと同名の村(コミューン)の話である。
レマン湖の東の端から北上する11号線をたどると25kmほどのところで、道路はヘアピンのように折れ曲がる。その折れ曲がった道沿いにせいぜい5、6軒の民家が並ぶ集落が見えてくる。そこには普通の商店などは見当たらないのだが、小さな集落には不釣り合いなホテルが建っている。周りの斜面はエピセア(唐檜)の林に囲まれた牧草地がかなり上の方まで続いていて放牧された牛の群が見える。その中にベランダに赤い花の鉢を並べた立派な造りの農家が点在しているのである。今は牧草の一番刈りの時期なのか斜面を草刈り機が登り下りし干し草の香りが漂う。「L’Etivaz」、スイスで最も早くAOP(EUの原産地名称保護)の認定を受けたチーズと同じ名のこの村は、三方を2000m級の山に囲まれていてすぐそばを小さな谷川が流れている。
その日はレティヴァ泊まり。ホテルは集落で一番大きな建物だが、古そうな3階建ての木造建築である。一階にはレストランがあって、地元の人達でにぎわっていた。チェックインし3階の部屋を与えられたのだがエレベータはない。重いバゲージ引きずりあげると床は板張りで歩くたびミシミシと音がする。昔懐かし鶯張りか、といっても今の人は分からないかもしれない。しかもシャワーとトイレは共同。しかしこんなホテルは嫌いではない。観音開きの窓を開けると目の前は牧草地である。夕食前に窓から見えたチーズの熟成庫の敷地に併設された土産物店風の新しい建物に行ってみた。そこには、Laiterie Epicerieとフランス語で書かれていた。ここはフランス語圏である。Laiterieは乳製品でEpicerieは食品店か。しかし中に入ってみると売っている物はチーズが多く、カットされたレティヴァの他に、この地方の山羊乳や羊乳のチーズがずらりと並んでいた。スイスのチーズといえば、グリュイエールやエメンタールなどの大型のハード系のチーズしか馴染みがないが、このように地方ごとに多彩なチーズがあることに気づかされる。
山間の夕暮れは早い。ホテルに戻って、夕食は何かと問えば今夜は鱒だといった。ヨーロッパの内陸で魚が食べられる機会は少ないが、スイスは渓流が無数にある国だから鱒や岩魚などの川魚料理が食べられる。レストランに降りていき、スイス産の切れのいい白ワインでのどを潤していると、25㎝ほどの虹鱒が、体をくねらせて皿に載って現れた。見れば魚の皮が白っぽい青である。料理名を尋ねるとトリュィト・オー・ブルーといった。やっぱり!「鱒の青色仕立て」とでも訳そうか。この料理は生きている虹鱒を使う。調理寸前に気絶させ、口からフォークを差し込んで内臓を抜き、すぐに酢に浸す。皮が白っぽいブルーに変ったら、ヴィネガー入りのクールブイヨンで静かに茹でる。身がそりかえってきたら水分を切り、レモン入りのバターソースで食べる。アルプス地方の代表的な虹鱒の料理である。写真が撮れなくて残念!
ワインが回って舌が滑らかになった仲間たちの談笑は尽きない。アルプスの夜は静かに更けていく。来月はレティヴァの熟成庫にご案内しよう。