世界のチーズぶらり旅

天空のチーズ工房への道

2014年8月1日掲載

天空への道

スイスの南西部、レマン湖北岸のヴォー州やフリブール州あたりは、4000m級の峰が48コもあるスイスの中ではさほど高い山はない。せいぜい2000m級の山がつらなり、谷は広くゆるやかで、そこには豊かな草地が広がっていて、この地方ではスイスを代表するグリュイエールをはじめ、様々なチーズが作られている。その中で1000m以上の高山で5月の初頭から10月の始めまで作られるレティヴァというチーズがある。高山のハーブや草花を食べた牛が出すミルクから作られる夏のチーズである。銅製の釜を使い、ミルクを温めるのは薪という風に昔ながらの製法を守っている。このように高山で作られるチーズをアルパージュと呼ばれワンランク上のチーズとして珍重される。

すべての草に花が

レマン湖の東の山あいにシャトー・デー(Château-d’Oex)という町がある。ゆるやかな緑の谷間にある美しい町だ。1999年にこの町から飛び立った熱気球が無着陸世界一周に成功したことで有名になった。この町の周辺には2000m超の山がいくつかあるが、春が来て山の中腹の雪が解けて草が芽吹き始める頃になると、高原に牛が放たれチーズ作りが始まる。そして季節を追って上へ上へと高度を上げていくのである。この6月に訪ねたのは、シャトー・デーの北にそびえる標高2389mのヴァニル・ノワール(Vanil Noir)という岩山の直下にある天空のチーズ工房である。

断崖直下のチーズ工房

この山もスイスで良く見られる山のように、上の方は太古の時代に氷河によって削られてできた断崖になっていて、その下はお椀を縦に割ったようなカールと呼ばれるU字谷を抱えている。そして、その断崖の下は氷河に削り取られた岩が堆積してできたモレーンと呼ばれる台地になっていて、このモレーンの台地に訪問先のチーズ工房がある。

シャトー・デーの町から車で、牧草地につけられた折れ曲がった道に取り付いて、ぐんぐん高度を上げていくと、谷を隔てた対岸の山が迫り息をのむ絶景が展開していく。さらに高度を上げると樹木は少なくなり一面のお花畑である。この時期、高山の植物は短い夏を惜しむようにすべての草が花を咲かせる。高山の花は大輪で派手なものはない。どれも小さくて可憐に見えるが、厳しい風土の中でしっかりと根を下ろし命をつないでいる。放牧された牛達はこれらの草花を長い舌で巻き込みモリモリとなめつくすように食べる。この花の香りが即チーズの風味になるんだなと、納得させられる光景である。

伝統を守ってチーズ作り

森林限界を超えたあたりで我々は車を降りた。この先は険しい山道で車がすれ違う事ができないので一般の車は入れない。幸い天気が良かったので1.5kmほどの登山である。高度はおそらく1500mは超えていただろうか。気分が悪くなった者もでたが、皆無事に傾斜が緩やかなモレーンの台地に到着。カウベルの音も聞こえる中を更に進むと目もくらむような断崖の真下に、岩に埋もれるようにして古いチーズ小屋が建っていた。

4個のレティヴァが誕生

さっそく中に入れてもらうと、薄暗い裸電球の光の下で2人のチーズ職人が立ち働いている。一人は若く美しい女性である。太い材木でできた可動式のアームにぶら下げられたチーズ釜の中はすでに凝固脱水を終えて炉の火から外され、カードを布ですくい上げ型入れする段階である。この釜からは一回に4個のレティヴァが作られる。

作業が一段落すると、外の小さなテント小屋の丸太のテーブルでの試食である。2000m近い天空の工房だからワインはなかったが、澄んだ空気の中で美しい山々を眺めながら、ここで生まれたレティヴァという希少なチーズを心ゆくまで味わったが、これ以上の幸せは無いといわなければならないだろう。