最初に日本にやって来たヨーロッパ人はポルトガル人で、それは1541年の事であった。そして、その4年後に種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲伝えた。というような話は筆者が中学生の頃から現在に至るまでこの国について、いつも語られる話題であった。そして、次に話のネタになるのは、現在の日本語の中に残っている、ポルトガル語の事である。合羽(カッパ)、煙草(タバコ)、天婦羅(テンプラ)ななどで、一覧表まで作っている案内書もある。このようにポルトガルの国を紹介する話の内容は現在もあまり進化せず、特にこの国のチーズについての情報などは皆無に等しいのである。ヨーロッパのチーズやワインを求めて旅に出てから40年。初めてポルトガルを旅する事になるのだが、この国のチーズについて何の知識もなく旅することになったのである。
ポルトガルはイベリア半島西部の大西洋に面した長方形の国で、国土は日本の東北地方よりやや広い。そこに、約1,000万の人達が暮らしている。高い山はないけれど、イベリア半島から南西に流れ下るテージョ河の河口にはリスボン市が、そしてドウロ河の河口にはポルト市がある。この様に国土の事は資料で調べることはできたものの、本題のポルトガル・チーズについては信頼に足る資料は全くなかった。2011年に出版された『世界チーズ大図鑑:柴田書店 』には当然ポルトガルのチーズも掲載されているが、本土から遠く離れた大西洋の孤島で作られている2種類のチーズをのぞけば、5種類しか載っていない。これだけの心細い情報を携えてリスボンの空港に降り立ったのである。翌日は朝から定番通り、テージョ河沿いに建つ大航海時代を切り開いた数十人の偉人達を乗せた石造りの巨大な帆舩のモニュメントと、そして、その下の広場の敷石に描かれている1541年に到達したという日本国の地図をカメラに収めてから、ポルトガル縦断の旅へと出発したのである。
まずは貸し切りのミニバスでテージョ河を渡って南下しシャンソンの「ポルトガルの洗濯女」で知られるセトゥーバル(Setubal)の近くの新しいチーズ工場に到着。だがここでは実験室のよう部屋で、よくわからない講義ばかりだったので、早々に退去し高速道路を北上。やっとチーズ工房らしき所に着いたのは午後になってからである。そして、皆を驚かせたのはこの工房のチーズの作り手のすべてが女性だった事である。これは「チーズ作りは女性の仕事」という、昔からのしきたりが、この国には残っているのである。アメリカのポール・キンテッドが書いた『チーズと文明:築地書館』には紀元1千年頃の記録では荘園には「乳搾り女=デァリー・ウーマン」と呼ばれる女性労働者がいて彼女達が搾乳とチーズ作りの仕事を担っていたという。ヨーロッパにはその伝統が今も受け継がれていようである。特にポルトガルではチーズ作りの現場は女性だけで、男の姿はなかった。
さて、国土の狭いこの国では主として羊乳を原料にしたチーズが主体で大型チーズはなく、側面にサラシを巻いた個性的な中型にチーズの他に小型のチーズの種類が多く、店のショウケースには驚くほど多様な小型のチーズが並んでいた。そして、この国のチーズは乳種にこだわるのか、チーズのラベルには乳を提供する動物の写真や名前が印刷されているが、ほとんどのチーズは羊乳製であった。前述のようにこの小さな国のチーズを何も知らずに軽く見ていたが、チーズの側面にサラシを巻いたソフト系のチーズのおいしさ、そして、店頭に無数に並んでいる小型のチーズの種類の多さに驚かされたのであった。
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