夏になると南フランスの野に雛罌粟(ひなげし)の花が咲き乱れることは、高校生の時に知った。それは明治の歌人与謝野晶子がフランスを詠んだ次のような歌が授業で取り上げられたからである。
「ああ皐月 フランスの野は火の色す 君もコクリコ我もコクリコ」。
この歌は国名なども「仏蘭西」という風にすべて漢字で書かれているので、今回紹介した上の歌は、若い人達にも分かりやすく筆者がアレンジしたものである。日本ではコクリコ(coquelicot)はヒナゲシと訳されている。
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あれから数十年後、仕事の関係で夏の南フランスを何度か訪れたけれど、この歌ほど激しく燃えているコクリコは見ることはなかった。だが、ある夏の日に突如その願いがかなったのである。その時は南仏のマルセィユからこの地方で作られている栗の葉に包まれた小さな山羊乳のチーズを求め、バノン(Banon)村を目指した。
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港町マルセィユから田舎道を真っ直ぐ北上していくと、まもなく印象派の画家セザンヌの生れ育ったエクサン・プロヴァンスの町を通る。そして、更に北上しローヌ川の支流を渡ると、ガリーグ(Garrigue)と呼ぶ、この地方特有の背の低い潅木の林が広がっているが、その林が途切れた日当たりのいい場所には、フェンネルやタイムなど、多くのハーブ類が自生しているのである。人家が途切れた、そんな山道をしばらく走ると、林の向こうに突然現れたのが、ひなげしの花が、まさに火のように燃えているバノン村であった。これを見て、なぜか記憶の底に埋もれていた与謝野晶子の、あのコクリコの歌が浮かんできたという訳である。
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同行の人達もこの美しい風景に驚きバスを止めてもらい、それぞれ写真を撮ったのだが、実はこの村の名が、栗の葉に包まれた山羊乳チーズの名前になっているのである。この村はさほど大きくはなかったが、このチーズが作られているエリアはけっこう広い。②の写真はバノン村の近くの林の中にあった歴史ありそうな工房で撮ったもので、地元のおばさん達が手作業で栗の葉にチーズを包んでいた。
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あれから十数年の月日が流れ、山羊乳のチーズを取材するために、再びこの地を訪れた。この時は少し回り道をして、かつてはコクリコの花で溢れていたバノン村の前を通ってみたが、過疎化が進んだか、人家は少なくなり昔の面影は全くなかった。今ではこの業界も近代化が進み、バノンを造る工房も小さいながら衛生的でおしゃれな新しい製品を作っているようである。今回は、山羊を飼育しそのミルクでチーズを作っている新しい工房を訪ねた。この地方は平地が少なく、小さな丘が波打つように続いているというような環境なので、大きな牧場はなく乳量の少ない山羊乳から造られるチーズの量は限られているのである。
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今回訪れた所も普通の民家を改造したような工房だったが、チーズの製造現場は実に近代的に作られており、少人数の技術者達が作るバノンは美しかった。実は、筆者はこの栗の葉に包まれたチーズは南仏の田舎のチーズと思い込み、まともに味わったことはなかったけれど、この時初めてBanonなるチーズを真面目にしっかりと味わう事ができたのである。そして、この南フランスの山道に無数に自生するハーブ類の事は時々思い出すが、高貴で複雑な香りなどは全く思い出すことはできない。
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©写真:坂本嵩/チーズプロフェッショナル協会
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