フランスの北部には高い山がなく大西洋岸から東のヴォージュ山脈まで広大な平野が広がっている。かつてはその中ほどにあるパリはイル・ド・フランス（Ile de France=フランスの島）と呼ばれていて、市の紋章は今も帆船なのである。これには別の意味があるらしいけれど、私はこの広大なパリ盆地を海に見立てパリを島といったのだと理解している。ある年の初夏にパリからフランスの高速鉄道TGVに乗車し、パリの東方250km先にあるナンシーの町を目指した。パリを過ぎるとすぐに人家は少なくなり、緑の草原や牧場、そして広大な麦畑が現れては去っていく。こんな風景を眺めている内に列車は一度も停車することなくナンシー（Nancy）の駅に到着。人口10万たらずのこの地方都市は、日本であまり知られていないが、アール・ヌーヴォー発祥の町といえば、美術愛好家の中にはうなずく人もいるかも知れない。でも、ナニそれという人の方が多そうだ。では、この町にはマカロンというお菓子が最初に作られたという店があるというのはどうだろう。でも、日本のマカロンはカラフルなパリ風と呼ばれるものが主流の様だが、ナンシーのマカロンは実に素朴な焼き菓子である。余談はさておき、この町にやって来たのはフランスの北東部で造られているチーズを探るためである。
この町に来て最初に訪れたのは何と、ブリ・ド・モー（Ｂrie de Meaux）を生産する新しい工場であった。かつてブリの工房はパリの近郊から東へ150kmあたりに多かったというが、販売力のあるこのチーズの将来を見越してか、パリから250kmもある、この麦畑の中に大きな工場を建てたのだろうか。中に入ると工房内も広く器具類も新しくなっていたが、チーズの造りかたは、30年前にモーの工房で見た方法と全く同じやり方を受け継いでいた。そして見学後の試食会は麦畑が見える工房の庭で行われた。最高の状態で出された当工房自慢のブリは絶品であったが、その味をさらに高めたのは、この地方の「地酒」シャンパーニュであった。
そして、その帰り道に立ち寄ったのは、この土地のチーズのマンステル・ジェロメの小さな工房だった。ナンシーの町のすぐ東に連なるヴォージュ山脈の高さはせいぜい1350mの小規模な山波だが、東側の谷にはマンステル（Munster）という町がある。そして、この地域の唯一のA.O.P.認証のウオッシュ・チーズはこの地が発祥なのである。もう30年前になるが、このヴォージュの山中で若奥さんが作る、いわゆるフェルミエ製のマステルを取材したことがある。その後に、この山脈を超えて西側のジェラルメ（Gérarumer）という村を訪れた事があるが、山脈の西側で造られるマンステルにはこの村名をとってジェロメ(Géromé)という名前が入るのだと教えられたのである。
さて、ナンシーは小ぶりな町だけれど中心地には瀟洒な王宮がありここが観光の目玉らしい。翌朝、宿泊地から王宮の庭園に建つ王様の銅像のわきを通り、チーズの売場の取材のために近くの市場へ急いだ。これが大正解であった。私はフランスのチーズを探るため30年以上かけて、フランスのほぼ全土を旅したが、このナンシーの市場のチーズの種類の多さは想像を超えていた。この時も時間がなかったので、とりあえずショーケースに並んだチーズを端から順に撮影していった。
写真を撮りながら気付いた事だが、この店にはコンテや、ボフォールなどの大型チーズのスペースは割合狭く、その代わりこのパリ盆地で造られたと思われる中型から小型のチーズが圧倒的に多かった。しかも、全てラベルを取り去って、チーズ名と価格が書かれたカードが添えられているのである。時間に制限があったので、とりあえず私はショーケースに並んだチーズを最初から終りまできっちりと撮影していったが、後から調べて見ると40カットほどのチーズの群が撮れていたのである。
実はこの後に市の郊外にあるチーズ専門店にも取材の予約が入れてあったのですぐにそこへ向かった。そして、この店の売場を見てびっくり。20ｍ以上あるかと思われる3段になったショーケースの棚はチーズが映えるように黒い材質で造られ、その上にラベルを取り去ったチーズが美しく並べられ、そのわきにチーズ名と価格が書かれたカードが添えられているのである。このナンシー市は平野の中にある左程大きい町ではないのに、なぜこのような大規模なチーズ店があるのか。南仏の大都市リオンの市場も訪ねたが、この町の市場程多彩なチーズに出会う事はなかった。
写真：坂本嵩／チーズプロフェッショナル協会
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