ラクレットというチーズ料理がある。今や日本ではこの料理を知らない人は少ないと思うが、一応紹介しておこう。これはフランス語のracler(削り取る)というそっけない単語からきている。発想は日本語の「削り節」に似ていなくもない。この料理の発祥はスイスの南西部にあるヴァレー州とされているが、この料理の元は、中型のセミハード系のチーズを半分に切り、その切り口を暖炉の火にかざし熔けた部分を削り取ってジャガイモと一緒に食べるという、料理とは言えないような、きわめて単純な食べ方である。
そんな料理が日本での野外パーティなどでお目にかかることが多くなった。1960年代に日本ではフォンデュというチーズ料理が話題になり、小ぎれいなフォンデュ・セットを揃えたりする人がいた。だが、当時の日本はプロセスチーズ全盛の時代で、この料理に使うチーズの入手が難しかったし、この小奇麗な道具は意外に手間がかかるので2、3回ほど使われて戸棚の奥深くにしまい込まれるという事になる。その後日本はスライス・チーズの全盛期がやってきて、チーズ料理といえばチーズ・サンドという時代が今に続くのである。
そんな中で1990年代の初め頃から日本のパーティに、このラクレットという新顔のチーズ料理が登場するのである。筆者はそれより少し前に、ラクレット発祥の地といわれるスイスのヴァレー州の山小屋で、暖炉の火でチーズを焼くこの料理のサービスの仕方を教わったのである。だが、この料理法は極めて単純で誰にでもできそうであった。あとは付け合わせの茹でジャガを用意すればいいのである。だがこの料理には弱点がある。まずは半分に切った中型のセミハード系のチーズと、これを丸ごと焼く専用の装置が要る。そして、パーティなどでは、チーズを焼きながら休まずサービスする人が必要なのである。従ってかなりの人数が参加するパーティでなくてはこの料理は成立しない。かといって、同じチーズを小さく切ってフライパンなどで焼くと、ラクレット料理にはならないという不思議なチーズ料理なのである。
ラクレットはスイスの郷土料理とされているけれど、ラクレットという名のチーズが作られたのはまだ新しい。今から百年以上前に書かれた『アルプスの少女ハイジ』の冒頭に、お爺さんの山小屋に預けられたハイジが、最初に食べたのは暖炉の火で焼いたチーズだったとあるけれど、スイスでは、こんなチーズの食べ方はごく当たり前だったようだ。だが、ラクレット料理の特筆すべき事はその合いの手に、パンではなく南米はアンデス山地原産のジャガイモを添えた事であろう。ジャガイモがヨーロッパに到来するのは16世紀の後半だが、その後一般家庭の食卓に上るまで200年以上かかっている。でも、この料理にはパンよりこのジャガイモの方が相性がいいようである。そして、ラクレットの聖地ヴァレー州と国境を接するフランスではどうかといえば、他国の料理を簡単に受け入れないこの国では、21世紀に入ってもこの料理を見ることはなかった。だが、2013年のパリの「農業祭」の会場には、いきなり、ラクレット・オーブンが林立していたのである。しかし、その付け合わせに添えられていたのはジャガイモではなく、なんと生ハムをはさんだバゲットであった。
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©写真:坂本嵩/チーズプロフェッショナル協会
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