乳科学 マルド博士のミルク語り

ヒツジ乳の脂肪は浮上してこない?

2021年6月20日掲載

ポール・キンステッドが書いた『チーズと文明』(築地書館、2013年)の169ページに、「牛乳と違って羊乳は簡単にはクリームの層を分離しない。牛乳の中に含まれているクライオグロブリンというタンパク質が欠けているからである。このタンパク質は油脂の小滴を集めて固まらせ、急速に表面に浮かび上がらせる。・・・」との記述があります。この記述に対して、ある先生から「羊乳では脂肪が浮上しにくいというのは本当だろうか?」というご質問をいただきました。私も『チーズと文明』を引っ張り出し、196ページを開いてみたら該当箇所に赤線が引いてあり、「?」マークを付けていました。きっとこの文章に違和感があり「?」マークを付けたにも関わらず、ろくに調べもせずほったらかしにしていたのです。
牛乳では搾乳直後の脂肪球はリン脂質や糖たんぱく質など電荷を有する成分を含む脂肪球被膜で覆われています。低温で静置していると電荷による電気的反発と脂肪球の疎水性領域間で働く疎水性相互作用との大小関係で疎水性相互作用が上回り、凝集してくるのです(図1)。脂肪の浮上に最も影響するのが脂肪球の粒径で、二乗で効いてきます。凝集により脂肪球の粒径が大きくなると、さらにこれらが凝集し表面に浮いてくるのです。したがって、電荷による電気的反発がなければ疎水性相互作用による脂肪球の凝集は早くなります。電気的反発をなくすような成分は脂肪凝集を促進する可能性があります。
クライオグロブリンはアグルニチンとかオイグロブリンなどとも呼ばれ、複数のたんぱく質を含み脂肪球の凝集を促進させます。日本大学の増田教授の論文
(増田、鈴木、森地、日畜会報 71: J60-J68, 2000)によれば少なくとも免疫グロブリンの一種であるIgM、分子量43kDa(注、Daはダルトンといい、分子量の単位です。43kDaは分子量が43,000という意味です。)のたんぱく質および分子量48kDaのたんぱく質が含まれていると報告しています。牛乳にはこれらたんぱく質によって脂肪球が速やかに浮上(クリーミング)してきます。
クライオグロブリンは加熱したり、均質化処理を行ったりすると脂肪球を凝集させる能力を失います。また、牛乳の酸性ホエイを4℃にて静置しておくと、もやもやとした濁りを生じます(図2、下層に沈殿しているカゼインの上部に認められるもやもや)。なので、加熱変性しやすく、均質でばらばらになる程度の弱い相互作用をしていると考えられますが、詳しいことは分かっていません。
一方、山羊乳では脂肪浮上が遅いことが知られています。図2は乳を4℃で静置したとき浮上するクリーム層を取り除き、下層部分の脂肪含量を測定した結果です。牛乳では1%未満ですが、山羊乳では4%近くであり、脂肪が殆ど浮上していないことを示しています。
増田先生の論文
(Masuda et al, Asian-Aust. J. Anim. Sci. 14: 351-357, 2001)によれば、山羊乳中のIgMは牛乳のそれに比べてやや少なく、43kDaのたんぱく質は極めて少なく、その代わり43kDaと48kDaの中間程度の分子量を有するたんぱく質が含まれています。そこで、牛乳中にある43kDaのたんぱく質が脂肪浮上を促進させる真犯人かもしれません。

ところで、羊乳の脂肪浮上はどうなのでしょうか?私は直接羊乳を扱った経験がありません。そこで、文献検索を行ったところ2件だけ見つかりました。その内1件(Piredda & Pirisi, Special Issue of the International Dairy Federation 0501/Part 3)には「山羊乳と羊乳のクリーミングが遅いのは、脂肪球の大きさが小さいこと、およびアグルニチニンが欠如しているためであろう」と書いてありますが、引用文献が書いてありません。なので、これだけでは羊乳のクリーミングが山羊と同様であるとは判断できません。2件目の論文(Tribst et al, Int. Dairy J. 94: 29-37, 2019)は保存のために凍結し解凍した羊乳についてクリーミングは早く、アグルニチンの存在で説明できると書いてあります。しかし、羊乳におけるアグルニチンの存在を直接示すデータや引用文献は示されていません。なので、やはりアグルニチンが存在しているかどうか明確ではありません。ただ、羊乳のクリーミングが遅いわけではなさそうだということは推測できます。ということは、キンステッドは羊乳と山羊乳を混同していたのでしょうか。どなたかご存じの方がいらしたら是非ご教示願います。


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