プロヴァンス幻想紀行
南仏のプロヴァンス地方といえば、ニースとかカンヌなど華やかなリゾート地を思い浮かべるが、内陸に入ると人家は少なく、様々な灌木に覆われたさほど高くない丘が折り重なるように続いている。曲がりくねった道を車で走ると、時々その低い丘を背にした小さな集落が現れる。夏であれば路傍には真っ赤なヒナゲシや黄色いエニシダが揺れている。昨年の6月、久しぶりにこの地方をミニバスで走った。バスに乗るときはいつも最前列の席で地図を広げ、過ぎていく町や村などの所在をチェックしながら目的地まで行くのだが、この地方の道は曲がりくねっている上に、際立った目印がないのでお手上げであった。あきらめかけていると、突然見た事がある風景が眼前に現れたのだ。さほど高くない丘の中腹に立つ教会の塔に見覚えがあった。Banon村だ!この旅でこの村を通過するとは思っていていなかったので驚いた、と共に前回の強烈な印象がよみがえってきた。
今から20年ほど前にもこの村の前を通過したことがあったのだが、その時のこの村のあまりの美しさに衝撃を受け、車を止めてもらい写真を取りまくったのである。村の前景の畑地には真っ赤なヒナゲシや紫のラベンダーの花が一面に咲き乱れ、背後に立つ家々の肌色の壁がこの強烈なヒナゲシの赤を引き立てていた。
まさにインスタ映えする風景だったのである。2番目の写真は昨年の夏に撮ったバノン村なのだが、20年前とは全く違った風景になっていた。過疎も進行しているようで、前景の林が高く伸びて村を隠してしまい、ヒナゲシが咲いていた畑は雑草に覆われ、ヒツジの群れが通過していった。
最初にこの村を訪れたのは、この地方特産である栗の葉に包まれた小さなチーズ、バノンを見るためであった。当時バノンはA.O.C.を取得しておらず日本でもまださほど知られていなかった。そのバノンの工場は村から少し離れた栗林の中にあり、到着した時はすでに当日のチーズの製造は終わっていたので、別室でおばさん達がチーズを栗の葉で包み、ラフィア(Raphia)という椰子の繊維で結ぶという作業を見学した。このチーズはこの後の2003年にA.O.C.を取得して市場にデビューするのである。
工場見学の後は、近くで山羊を飼いチーズを作っているというフェルミエの工房を訪ねた。車を走らせると、間もなく黒板にチョークでバノン・チーズのイラスとを書いた標識があり、そこに入ると林の中にきれいな工房があった。石造りの小屋に入ると、さっそく仔山羊のお出迎えである。小さな製造室に入ると、一人の女性が、凝固させたヤギ乳のカードを、小さなお玉をを使い型入れをしているところだった。ていねいな説明を受け、程よく熟成したチーズも試食させてもらい、バノン幻想の旅は終わりに近づいた。あとはパリに飛ぶだけだが、この後、特大のプラトー・ド・フロマージュに出会うのである。
チーズ工房から、更に北上し山中のGapという町のレストランで、遅い昼食をとった時の事である。突如庭先に二輪車に乗ったチーズ盛り合わせが出現した。しかも初夏の太陽の真下である。写真をご覧あれ。ざっと数えても30種以上のチーズが雑然と並んでいる。ここで筆者は初めて、合いの手にワインではなく南仏の強い酒パスティスを飲んだ。この酒は100年ほど前に、ゴッホなど芸術家達の頭を狂わせたというアブサンが禁止された時それを模して作られたリキュールで、アニスやフェンネルで香り付けした強い酒だ。水で割って飲むと天国に行けそうな気分になってきた。幻想の旅の最後にふさわしい酒であった。
■「世界のチーズぶらり旅」は毎月1日更新しています
©写真:坂本嵩/チーズプロフェッショナル協会
*禁無断転載