スペインの風土は、他のヨーロッパ諸国と比べればかなり特異である。イベリア半島の中央部の大部分はメセタと呼ぶ、標高が500mを越える台地に覆われていて、飛行機の窓から見下ろすとピレネー山脈を越えたあたりから、枯野や地殻がむき出しの荒涼とした風景が続く。所々にまばらなオリーブの林はあるが、森林らしきものは見えない。
今から2千年前イベリア半島を支配下に置いたローマは、この地をヒスパニア「兎の国」と呼んだ。この言葉からは、森に囲まれた草原を兎が飛び跳ねている風景を思い浮かべる。ローマ時代はそのような豊かな風土だったのだろう。現在のように兎の隠れる草むらさえまれなこの乾燥した土地からは、まさか兎の国などという発想など浮かばないだろう。
今のスペインはどちらかといえば羊の国だ。現在もっとも乾いた過酷な土地といわれる、スペイン西部のエストラ・マドゥーラ地方の、並木など全くない荒野を車で行けば、さえぎる物の無い荒野の、遠くに、近くに羊の群れが見える。さすがに最近ではスプリンクラーが設置されたり、人口衛星を使ったハイテク技術で土壌の乾燥を感知し、葡萄の木の一本一本の根元に点滴を打つように水をやるという設備を備えた新しい葡萄畑があったりして驚かされる。太陽は有り余るほどあるから、水さえあれば葡萄は実るから、このような近代的なワイナリーが荒野の彼方から突然姿を現すのである。
このあたりのチーズは当然羊乳が原料のチーズだが、その代表的なケソ・デラ・セレーナというチーズはローマ時代から改良されてきた、メリノ種という羊の濃厚なミルクから作られる。しかし、この優秀な羊毛がとれる羊が「兎の国」と呼ばれたスペインの国土を荒廃させる原因になったともいえる。800年間この半島を支配してきた回教徒を退散させたキリスト教徒は、やがてこの地に王国をたてる。その王室の資金源になったのが、上質な羊毛がとれるメリノ羊だった。王家はメスタと呼ぶ貴族が作る牧羊組合に対し、羊の群がどこでも通れる通行権を与えた。そのために農業は衰退。16世紀には350万頭という羊の群れが全土の草を食べつくしてしまう。こうしてスペインの国土の大半は荒野となったのだという。しかし、門外不出だったメリノ羊も外国に持ち出され、スペインの羊毛産業は競争力を失っていくのである。いま、我々の前にいるメリノ羊たちはチーズのために優れたミルクを提供することで生き残ってきたのである。
この地方で作られるDOP(原産地名称保護)指定のチーズは、前出のセレーナやトルタ・デル・カサール。山羊乳のイボレスなどがあるが、どれもアーティーチョークの凝乳剤を使った柔らかいチーズである。濃厚だがやさしい味わいである。
この地方の古い街といえば2千年前にアウグスト帝の退役軍人達が作ったというエメリタ・アウグスタ(現メリダ)があり、その日はこの町にホテルを取ったが、そこはローマ時代の遺跡に埋まったような町だ。街中を流れるグアディナ橋にはローマ時代に作られた800m程の橋があり、徒歩なら今も渡ることができる。スペイン特有の抜けるような青空の下をこの橋を渡ってみると人間の壮大な歴史が胸に迫ってくる。
その夜はバル(Bar)の探訪である。このあたりはかの有名なハモン・イベリコの産地にも近いから、極上のこの生ハムも食べたいし、荒野のやさしいチーズ達にも出会いたいと、意気込んでめぼしいバルを2軒ほど回り、ほぼ目的は遂げた。その後は旅の疲れか、ワインやシェリーが思いのほか効いてきて、その後何を食べ、何を飲んだか分からなくなったのは残念なことであった。