今回はスイスチーズの話です。ここで突然ですが、札幌郊外の手稲山に近い所に、昭和初期(1927年)に建てられた「ヘルヴェチア・ヒュッテ」という山小屋がある。ドイツ人が設計し後に北大に寄贈された。父が多少関係していたので子供の頃からこの山小屋の名前をよく覚えていた。丸太造りの当時としては画期的な山小屋だったらしい。後にこの小屋の名前の意味を知って驚いた。ヘルヴェチアとはスイスの別名なのである。ご存じのように、スイス連邦は四か国語が公用語になっているので、当然国ごとに国名が異なる。だがこれをすべて書くのは無理な事なので、ラテン語のヘルヴェチア(Helvetia)を共通の国号とし切手などにも使っている。ヘルヴェチア、これはローマ時代からの古い呼び方である。
ここで時代は2千年前に遡る。現在のスイスは西にジュラ山脈、東はアルプスの山々、北にライン川、南にレマン湖と、天然の要害に囲まれた土地で、古くからケルト人系のヘルエティイ族(ヘルヴェチアの語源)という勇猛な部族が住んでいた。紀元前1世紀頃この部族は人口が増えたので、一族そろって狭い谷を出ようという機運が高まる。そして、この際他の部族を併合して新しい王国を作ろうという野心を抱くのである。そのためには南フランスにあるローマの属州を通過しなくてはならず、その許可を当時のローマ武将、ユリウス・カエサル(英語読みでジュリアス・シーザー)に願い出る。しかしカエサルはこの危険な部族が属州に近付くのを好まず拒否。ここからローマ軍とヘルエティイ族との戦いが始まる。結果はローマ軍が勝利しヘルエティイ族は元の土地に封じ込められる。これが以後8年間続くガリア(現在のフランス)平定への戦いの発端である。この事はカエサルの「ガリア戦記」に詳しい。
さて、アルプスの山岳地帯に住むケルト人は、昔から乳牛を飼い夏場は高原で、大型で固いチーズを作っていた。これらがいわゆる山のチーズのルーツになるのである。その中でスプリンツ(Sbrinz)という、超硬質の古いチーズがある。紀元一世紀のローマの博物学者プリニウスはこのチーズをカセウス・ヘルヴェティクス(ヘルヴェチアのチーズ)と記している。保存がきき輸送に適したこのチーズは、ロバの背にのせられアルプスの峠を越えて、永遠の都ローマに運ばれていったのである。ローマが滅亡すると修道士たちがアルプス山中に修道院を建て、修行のかたわら次々と新しいチーズを生み出し、チーズは、山国スイスの重要な交易品になっていくのである。
ある年の晩秋にレマン湖の東のバレ地方の谷にスイスのチーズを訪ねる旅した。まずは当時日本でも人気が出てきたラクレットの製造を見るために谷あいの協同組合の工房を訪ねた。
1970年代刊行のラルースチーズ辞典にはラクレットという素朴な料理は、バーニュ(Bagnes)というチーズを使って作られるとある。この組合の熟成庫に並ぶチーズを見ると側面にBAGNESと刻印されたチーズが並んでいた。2007年にAOPの認証を受けた「ラレット」という名のチーズはまだ新しいのである。工場見学の後は、昔のチーズ小屋を改造したレストランで暖炉の火で焼くラクレットを、木製の古い水切り台(ホエーを切る台)を利用したテーブルで味わった。この時、薄く削られたチーズが素朴なボードにのせられて現れた。これこそが2千年前にローマの都に運ばれたスプリンツだ。
翌朝はこの谷にある中規模の工場を訪ねた。この工場はほとんどがオートメーションでラクレットやスプリンツなど数種類のチーズを衛生的な設備で効率よく作っている。熟成庫での反転やブラッシングなども機械で行う。ここで四角いラクレットを発見。話によれば、四角い方が焼く時に最後のロスが少ないとのこと。この谷はラクレットの大消費地なのだという。
わざわざ日本から工場を見学に来た我々に、工場の偉いさんは自らスプリンツをカンナで削って盛り合わせ、土地のワインと一緒に試食させてくれた。 見学を終えて外に出ると、晩秋の陽は早くも谷合いの放牧地に長い影を引き、その中を牛達が帰っていく。この姿を眺めながら、ヘルヴェチアの長い苦難の歴史を思った。時代は人を変えていくが、山々は多分2千年前と同じ美しさでそびえているのだろう。