イタリアの西北部に位置するヴァッレ・ダオスタ州はアルプス山中の小さな州である。面積もイタリアで一番小さい上に州全体が山岳地帯である。フランスとスイスの国境に沿いにはモンテ・ビアンコ(モン・ブラン)を筆頭に4000m級の山が11個ある。そして3000mクラスの峰ならばざっと数えても100個以上あるという山また山の州なのである。従って人口密度もイタリアで最も低い。が、しかし一人あたりのGDP(生産量)はイタリアで最も高い裕福な州なのである。登山に夢中だった若いころの私にとってヨーロッパ・アルプスの山々は憧れだったが、まるで絵葉書その物のように整備された美しいスイスの風景もいいが、この観光客も少なく山の生活が見えるイタリアのアルプスも捨てがたい。
このアオスタ州にはDOP(原産地名称保護認証)チーズが二つある。ヴァッレ・ダオスタ・フォルマッツオという長い名前のチーズとフォンティーナだが、前者は生産量も少なく日本ではほとんど知られていない。フォンティーナはイタリアを代表する山のチーズのひとつで、円盤型のチーズの側面が電車の車輪のように内側に湾曲しているのが特徴である。この形はアルプスの向こうのフランス側で作られるボフォールにも見られる。このことは、国は違えどもかつては同じ文化圏のチーズであったことを物語っているのである。初夏のある日、このアオスタ州にフォンティーナを訪ねて高原を旅した。
トリノからフランスに通ずる高速道路を西に向けて走ると、やがて大きな谷の入り口に差し掛かる。両側には氷河をまとった3000m級の峰が迫ってくる。谷底を少し走ってから北側の急斜面に刻まれた七曲りの細い道に取りつく。少々図体の大きいバスは狭い道路を右に左に大きく曲がりながらどんどん高度を上げていく。窓から下を見れば谷底しか見えない。ヨーロッパを車で走っていて気付くことだが、日本の道路は景勝地であろうと白く塗られた大げさなガードレールがめぐらされているが、この急な山道でも、ガードレールはあまり設置されておらず、あっても風景に配慮した地味なもので写真を撮るときには実にありがたい。一時間ほど肝を冷やした後に急に開けた高原に出た。標高の高いこのあたりは木々の葉もまだ浅緑で草原は白や黄色の小さな草花に覆われている。さらに上へと続く高原の一本道沿いに家々が軒を接する小さな村があった。目を上げると頭上には3000mクラスの峰が迫る。
この村の入り口に目的のチーズ工房があった。斜面に建てられたその工房は2階が玄関で1階が谷に向かって開けた製造室になっている。2階には売店と小さなセミナー室があり、吹き抜けになっている階下の製造室を見学することができるようになっている。到着したときはすでにフォンティーナの型詰め作業が行われていた。工房は整然としていて実に清潔で美しい。イタリアらしくないと雰囲気と言ったら失礼だろうが、このあたりはかつてはフランス領でフランス語も公用語になっているから、おのずと気風が違っていても不思議はないのだ。最後は美しいアメ色になったフォンティーナが並ぶ熟成庫を見学。その後はお楽しみの試食と買い物だ。
試食を早めに切り上げ、私はそそくさと外に出て村の一本道を上の方に上っていった。しばらく行くと谷の向こう側の林からカウベルの音が響いてくる。急いで谷に降りて霞がたなびくように咲く草花の中の道を音のする方へ向かうと、向こうから茶色と白のブチのヴァッレ・ダオスタ種という、チーズ工房でもらった絵葉書に出てくる牛がやってきた。午後の搾乳のためか牛は列をなしカウベルを鳴らしながら畜舎に戻ってくるところだった。なんという美しい光景だろう。草原に放牧されている牛達はどれも健康で生気にあふれている。天気は上々、草花に覆われた浅緑の草原にこの牛の群れが実によく映えるのだ。数分間だったが絶好のチャンスを与えられ、夢中でシャッターを切った後は草花の中に倒れこんだ。もう初夏といえる季節だが、標高の高いこのあたりの木々や草はまだ新緑で、雪をいただいた山とのコントラストが見事である。そして吹き渡る風には複数の花の香りが含まれていた。