北イタリアのピエモンテ州。この地名に出会うと筆者はなぜか「足引きの、山鳥の尾の・・」という柿本人麻呂の歌が思い浮かぶ。イタリア語のピエモンテ(Piemonte)という言葉は、Piè=足、Monte=山からなっている。山の足、つまり西南アルプスの山すそが長く尾を引いた風景が想像されるからである。訪れてみれば想像通りピエモンテ州は氷河を抱いたアルプスの尾根筋が長く足を伸ばしている美しい姿がどこからでも見える。
州都のトリノから、右手に朝日に照り映えるアルプスの山並みを眺めながら高速道路を40kmほど南下すると、スローフード発祥の地として世界に知られるようになったブラ、白トリュフで有名なアルバの町がある。そして、これ等の町を中心として円を描けば、その中にイタリアきっての銘醸ワイン、バローロ、やバルバレスコの産地が入る。
美しく整備されたブドウ畑の丘陵地の所々は林や草地が広がっていて羊などが放牧されチーズがつくられている。DOP(原産地名称保護)認証チーズのブラ(Bra)、生産量がきわめて少なく、貴重なチーズになっているムラッツアーノ(Murazzano)などの産地もこのエリアに入る。そのほかピエモンテ州はDOPチーズの宝庫で、いくつもの個性的なチーズの生産エリアが重なっている。
スローフードの町ブラから20kmほど南下するとチーズと同名のムラッツアーノという小さな村に行きつく。その村を取り巻く林や草地に覆われた丘陵地を登っていくと、丘の頂上付近に羊の絵が描かれた看板があり、そこには平屋建ての民家の様なたたずまいのチーズ工房があった。すでに作業が始まっていたのでさっそく見学させてもらうと、こじんまりとした部屋の中で、エプロン姿の二人の女性がチーズを作っていた。昔からヨーロッパではチーズ作りは女性の仕事であったが、ここでもその伝統が守られているのである。この工房では、希少価値の高い羊乳製のムラッツアーノを作っているが、それだけではなく、地元の需要に応えて複数のチーズもつくっている。我々にとっては初めて見るチーズばかりで、中には随分と個性的なものもあり興味をひかれる。DOP認証のチーズは生産エリアや製法などの規制が多く、作る方も苦労が多そうである。
工房のわきの斜面の上に小さな試食用のあずま屋があって、そこで5種類のチーズを試食させてもらったが、そこで出された野球のベース版の様なチーズにはびっくり。どんな発想からこのようなチーズが生まれるのか。だが、このチーズは見てくれに反して割合穏やかな味わいであった。小高い丘の頂上付近にあるこの工房からの眺めは素晴らしい。ゆるやかに波打つ丘陵地帯は、森と草原と畑地が織りなす緑のパッチワークに彩られ、その向こうには氷河を抱いたアルプスの山波が見える。旅も終盤に差し掛かったこともあって、同行の人達の大半は狭い熟成庫の片隅に並んで順番待ちをしチーズを買い込む。人影もまれな小さな工房は時ならぬチーズの売れ行きでてんてこ舞いの様子だった。
さて、ここまで来たら銘酒バローロの村へ寄らないわけにはいかない。チーズに詳しい人はワインにも詳しい。ムラッツーァーノを出て20分も走れば、整然と手入れされたブドウ畑に覆われた丘陵地帯が現れ、しばらく走れば、葡萄畑のくぼみに沈んだようなバローロの村が見えた。村は小さいがワイナリーは巨大である。初夏のワイナリーはさしたる作業もないから、ざっと場内を見せてもらってからからお目当ての試飲である。有料ながら原産地で飲むワインはまた格別である。ワイナリーには広い売店があり、試飲して気に入ったワイがあれば買うことができる。そんなわけで、日本で買えばいくらするか!などといいながら、再び女性群の購買欲に火が付いた。宝の山に入って目の色が変わった。
荷物の嫌いな私はといえば、さっき求めたチーズと一緒にホテルで今夜楽しむ中程度のワインを求めただけであった。