フランスのAOP(原産地保護名称認定)チーズにヴァランセという山羊乳のチーズがある。ややずんぐりしたピラミッド型で表面には木炭の粉がまぶされている。
「フランスの庭園」といわれるロワール川流域は大小の瀟洒な城館が点在する人気の観光地だが、その本流から少し南に下がったところにヴァランセという小さな村があるが、そこがこのチーズの産地である。フランスでは良く見られる緑に囲まれた美しい村だが、ここには村の半分以上の敷地を占めるヴァランセ城がある。森に囲まれた広い庭園があり鹿などが放し飼いにされている瀟洒な城館だが、ロワール川から少し離れているので観光客は少ない。
このあまり大きくない城は、革命後のフランスの近代史に残る役割を果たした時期があった。フランス革命からナポレオン、王政復古と、激動の時代にギロチンにもかからず、その老獪な手腕で生き抜いた人物がいた。タレイラン・ペリゴールである。フランスの大貴族の家系に生まれたが、肢が不自由だったため聖職者になり司教となるが、教区にはほとんどいかず、もっぱらパリの邸宅で美食三昧の生活を送り、政治の表舞台では主に外交官として活躍した。革命後の混乱期に頭角を現したナポレオンに手腕を買われ外務大臣になる。1800年代初頭、ナポレオンは国賓をもてなすために、タレイランに命じて、このヴァランセ城を買わせたのである。当時パリで最高の美食を味わうことができるのはタレイランの屋敷という事になっていて、外国の王侯貴族もタレイランの屋敷に招かれることを願ったという。こうしてタレイランは各国の情報を広く収集して外交に、また蓄財に生かしたのである。
快進撃を続けるナポレオンはスペインに侵攻し、王を退位させ自分の兄ジョセフをスペイン王(ホセ一世)に据える。そして王子ら3人をヴァランセ城に幽閉するのである。幽閉といっても城内を歩き回るのは自由で「きらびやかな幽囚」といわれた。タレイランの政治以外での功績は、フランス料理史に燦然と輝く料理人カレームを育てたことだ。タレイランの美食外交は、後に王の料理人と言われたこのカレームがいなければなしえなかっただろう。
ナポレオンの没落後、ヨーロッパの秩序を話し合う、かの有名なウイーン会議(1814~15)にタレイランは敗戦国フランスの代表として乗り込むが、この時も料理人カレームを伴って列強の王侯貴族をご馳走攻めにし、裏で大国と小国の利害を巧みに操ってフランスの栄光を守るのである。
タレイランは引退後、夏はこのヴァランセ城に居を移し美食三昧の日々を送り、晩年はこの町の村長になって村のインフラ整備にも力を尽くすのである。
タレイランはナポレオンに重用されたが、何でもそそくさと食べて、戦争ばかりやっていたナポレオンを軽蔑していた節がある。キレて怒鳴りまくるナポレオンを前に眉ひとつ動かさず「あれほど偉大な方が、あれほど育ちが悪いとは残念ですナ」とうそぶいたという。時代とともに次第に二人の仲は悪くなっていった。
そこで、こんな小話が生まれた。これはヴァランセ城の管理人に聞いた話だが、ナポレオンが無謀なエジプト遠征で負けて、単身パリに逃げ帰ったある日、ナポレオンの元にピラミッド型のチーズが届いた。これを見たナポレオンはエジプトでの敗戦を思い出して気分を害し、チーズの上を切れ!と命じたとか。そのチーズがヴァランセで、もとはきれいなピラミッド型だったが、ナポレオンの命令でこんな姿になったとか。チーズを届けさせたのはタレイランだったとか。タレイランならやりそうだが、話としては面白いが、多分フランス流のジョークかも知れないので、まともに信じてはいけません。
ヴァランセ城の地下には当時の立派な厨房が保存されていて、中央にはカレームの肖像画掲げられていて、200年前の美食外交がしのばれる。門前のヴァランセ村は清潔でひっそりと静まりかえっていた。