世界のチーズぶらり旅

岩山の洞窟で育つ不思議なチーズ

2021年12月1日掲載

 私が初めてスペインを訪れたのは、1970年代の中頃でフランコ独裁政権が崩壊する1年前の事であった。その当時日本にもワインブームとやらがやってきて、輸入ワインの宣伝が私の仕事になった。ならば、本場ヨーロッパの産地を見たいので、ぶどうの収穫期にひと月余の休暇を願い出て、単身、西ヨーロッパの旅に出た。旅費の余裕がなかったので大半が列車の旅であったが、これがかえってそれぞれの国の、地方の風土を知るよい機会となった。その最初の目的の国が、最もぶどうの収穫期が早いスペインで、しかも半島南端のシェリーの産地だったのである。

1. 見渡す限り茫々たる麦畑

かつては「ヒスパニア=兎の国」といわれたスペインの大地を走っていると、見渡す限りの麦畑や、広大な荒野に放たれたヒツジの群れが次々と窓の外を通り過ぎていく。これがウサギの国? これについて司馬遼太郎氏はこんな事を書いている。かつてこの半島には森林があり草原が広がっていて野ウサギが跳ねていたのだろうと。それが大航海時代に鉄の船を作るために必要な木炭を得るために森林は次々に伐採されていった。鉄の船一艘で大きな森が一つ消えたという。乾燥した国土は森の再生はかなわず一面の荒野となった。だがこの荒野でも生きられるヒツジが生き残り羊毛と羊乳チーズを残した。その後日本にもヨーロッパ各国からチーズが輸入されるようになると、私もチーズの仕事にも関わるようになり、何度かこの国を訪れる事になるのである。

2. Idiazabalの型入れ

あれから数10年、スペインチーズの味も少しは覚えたが、今でも日本ではあまり見かけない。そこで数年前、まだ私にとって未踏の地だった北部のアストゥリアス地方を訪れ、この地方のチーズを探索する機会を得たのである。ビスケー湾に面したこの地方には、日本人を引きつける観光地は少ないが、スペインとしては珍しく山谷は緑に覆われていて、緩やかに起伏する丘の上や谷間に家畜を飼いチーズを作る工房が点在している。だが、そこから少し南下した所に「ヨーロッパの尖塔」と呼ばれる厳しい岩山が屏風のように東西に連なっている。 

一日目は美食の町といわれるサン・セバスチャンに宿泊し、翌朝海岸線から少し入った丘陵地にある羊乳製のチーズの工房を訪ねた。緑に覆われた曲線の多い山道をたどっていると信州の山中を走っている錯覚に陥るが、突然、車道を埋めるヒツジの大群に出会って妄想から冷めた。乳しぼりを終えて放牧地に向かうヒツジ達である。群れをやり過ごすと緩やかな丘の中腹に、ヒツジ小屋に隣接する工房が見えた。この地方の羊乳製チーズの名品、イディアサバル(Idiazabal=D.O.P)の工房らしい。ヒツジ小屋にはまだ搾乳を終えた数百頭のヒツジの群れが残ってはいたが、チーズ造りはすでに型入れ作業に入っていた。羊乳特有の香りが漂う工房を見学した後はお定まりの試食タイムだが、この時に出されたワインが、この地方特産のチャコリという微発砲の軽い白ワインで、これが濃厚な羊乳チーズの風味を爽やかにしてくれた。

3. ヨーロッパの尖塔と呼ばれる岩峰の連なり

翌日は海岸線を西に向けて走ったが私には気なる場所があった。スペインの宮廷画家ゴヤの伝記全4巻を執筆した日本の作家、堀田善衛氏が晩年この辺りのアンドリンという小さな海辺の村で一時期奥さんと暮らし、その村の事をこんな風に描いている。「この村の人口は250人、牛も250頭、村には郵便局もなく電話は村役場にだけ」と。だが、村人達は東洋からやって来た珍客を放っては置かなかった。近くにある幾多の名所旧跡を見てこいとしつこく勧める。更には村の南方に連なる岩山にはローマ時代の橋があるというので、急な狭い谷間の道を奥さんが運転する車で登っていったという。そして、帰りにはこの辺りで作られるチーズを勧められるままに購入。「それは途方もない強烈な匂いを放つものだった」と書いている。それは、我々がいま探索しようとしているチーズに違いない。

4. 地下水がしたたる洞窟の熟成庫

日本の大作家が辿ったらしい岩だらけの山道を車で登っていくと、間もなく小さな村に着く。それから山道を歩いて行くとやっと小さな洞窟の入り口にたどり着く。粗末な木製のドアを開けるとそこがチーズの熟成庫らしいが電気が来ていないので真っ暗。懐中電灯の光を頼りに熟成庫に入って驚いた。棚板に並ぶチーズは天井からしたたる地下水に濡れていているのだ。これで正常な熟成ができるのかと心配したくなる環境なのである。
見学の後の試食は村の工房に戻って行われたが、現れた試食のチーズは、写真のように皮を丸ごとはぎ取ったもので正体は分からない。これは青かび系のカブラレスであったか?

5. 皮を豪快にはぎ取った試食のチーズ

 

 

 

 

 

 


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©写真:坂本嵩/チーズプロフェッショナル協会
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