方長老
牛乳は、平安時代までは貴族や高僧など上流階級の間で薬として飲用されていましたが、庶民にまで広がることはありませんでした。やがて、武士の台頭により鎌倉時代になると、一部の寺院で儀式に「蘇」が使われていたとの記録はありますが、実質的には絶滅してしまいました。その後、江戸時代に入り徳川吉宗が白牛3頭を嶺岡牧にて飼育(1727年)するまでは牛乳暗黒時代と考えられていました。
しかし、1650年に「方長老」というお坊さんが盛岡藩主に牛乳の飲用を勧め、現在の青森県下北半島と岩手県北部で搾乳し(図参照)、竹筒に入れて盛岡に輸送したとの記録があります(種市町史 第1巻史料編、他)。
では、方長老という僧侶とはどんな人だったのでしょうか。本名は規伯玄方(キハクゲンポウ)といい1588年に生まれ、対馬藩にて外交担当僧になるため見習僧として修業をしていました。
当時、豊臣秀吉による朝鮮出兵があり、日本は最終的には敗れ、日朝関係は冷えていました。しかし、対馬藩は日朝貿易で益を得ていたので、日朝貿易を再開することは急務の案件でした。しかし、朝鮮は日本に①朝鮮国王の墓を荒らした犯人の引き渡し、および②日本から朝鮮に国書を送ること(慣習では朝鮮から日本に国書を送っていました)を要求したのです。いつの時代でも日朝関係はこじれますねー。犯人引き渡しの方は、罪人を犯人に仕立てて引き渡したのですが、国書については幕府が認めるとは到底考えられません。そこで、対馬藩の家老が国書をでっちあげ朝鮮に送りました。今では当たり前(?)みたいになった公文書偽造改ざんは昔から行われていたのですね。ところが、国書偽造は幕府にバレてしまい、対馬藩の家老は、国書偽造は方長老が行ったと幕府にチクったのです。年表を見ていただければお分かりのように、方長老が外交僧に就任したのは1611年で、最初の偽造が行われた時はまだ見習の身分です。偽造などできる立場ではありませんでした。しかし、1635年に幕府は喧嘩両成敗で、家老は弘前に、方長老は盛岡に流刑となったのです。
盛岡に来た方長老は優秀な方だったようで、南部鉄器などの開発に関わったと言われています。それだけではなく、病弱だった藩主に牛乳を飲むことを勧め、現在の青森県および岩手県の太平洋側にて搾乳させ、これを盛岡に運び藩主に飲ませました。方長老が盛岡を離れたのは1658年ですが、1652年以降牛乳飲用の記録は見出せません。藩主が元気になったためでしょうか?理由は分かりません。
それにしても、いくつかの疑問が残ります。
第一は竹筒(推定 500mL~1L)に入れた牛乳を夏季に盛岡まで運んで腐敗しなかったのでしょうか?1651年7月25日に種市を出発し、牛乳を入れた竹筒5個を盛岡に献上した渡辺喜左衛門が8月3日頃帰着したという記録(盛岡藩雑書 第5巻)があるので、片道約3日程度と推測できます。竹の皮には殺菌効果があると言われていますが、竹筒にも殺菌効果があるのでしょうか??
第二の疑問は、方長老は何故牛乳の搾乳方法や健康効果を知っていたのかという点です。お坊さんだったので、平安時代の牛乳や蘇について知っていたのかもしれません。あるいは、朝鮮から伝わった書物に記載されていた可能性もあります。また、朝鮮通信使から聞いていたのかも。実際、1655年の第14回朝鮮通信使が江戸に向かう途中、京都伏見の豪商にて対馬藩と淀藩から接待を受け、その際馬乳がふるまわれたようです(京都市、京都市歴史資料館作、ver1.01)。この時の通信使一行は総勢478名だったそうですが、馬乳は一部の通信使のみにふるまわれたのでしょう。
それにしても、馬から搾乳する方法を知っていた、あるいは教えてもらった可能性があります。一方、第16回の朝鮮通信使を下関赤間にて長州藩が接待した際のメニューには乳は記載されていません(山口県大看護栄養学部紀要 2008年)。
乳文化の伝来を探るうえで、示唆に富んだ出来事です。